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    <title>制作日誌</title>
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    <updated>2011-11-15T17:24:53Z</updated>
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    <title>最後にして最大の挑戦</title>
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    <published>2011-05-31T15:00:02Z</published>
    <updated>2011-11-15T17:24:53Z</updated>

    <summary>私が初めてのリポーターを務めたのは、大学二年の秋のことだ。「多摩探検隊」のシリーズ企画となっている『多摩あるきたい！』で、五つある高尾山の登頂コースをすべて踏破するというものだった。「二年前」というと、もはやずいぶん昔の...</summary>
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        <![CDATA[<p>私が初めてのリポーターを務めたのは、大学二年の秋のことだ。「多摩探検隊」のシリーズ企画となっている『多摩あるきたい！』で、五つある高尾山の登頂コースをすべて踏破するというものだった。「二年前」というと、もはやずいぶん昔のことのように聞こえるかもしれない。しかし、私は今でもあのときの朝焼けの色や、澄み切った空気の冷たさ、その日食べた朝ごはんまで、はっきりと思い出すことができる。終わったあと「もう、こんな無茶なことをすることもないだろう」なんて、思っていたことも。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110601_saitou_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="207" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 番組ロゴ</div>
</div>


<p>大学四年にもなって、高尾山全登頂コース踏破のとき以上の挑戦が私を待ち受けているとは、想像もしなかった。今回の『多摩あるきたい！多摩八十八ヶ所巡りの旅』は、通常車で七日間かけて巡礼する多摩版四国八十八ヶ所を、三日間で回りきるという企画である。私は高知県出身のため、地元で白装束姿のお遍路さんを見かけることは普通にあり、巡礼がどんなにつらいことかも聞いていた。四国ほどの距離はないにしろ、八十八ヶ所は相当な数だ。また、通常ひとつの地区、あるいはひとりの人物を追うことが多い『多摩探検隊』において、多摩のほぼ全域を回るというのは前代未聞の企画だった。</p>

<p>そのリポーターをやると決まった私は、不安でいっぱいだった。高尾山で自分のリポートの下手さを嫌というほど感じていたうえに、前回以上に体力と精神力のいる企画であるのは明らかだった。それでも引き受けたのは、「今まで誰も作っていない『多摩探検隊』を作りたい」と言っていた、ディレクターとプロデューサーの熱い思いに共感したからだった。私たちの代の最後の企画を、私たちにしかできないものにしたい、と言う二人。そこに、私も加わりたかったのだ。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110601_saitou_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="202" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ まだまだ元気なリポーター二人</div>
</div>


<p>そして、十二月の撮影当日。シャツにカーディガンという薄着で、私は井の頭公園にいた。寒さで手がかじかむ。隣には白装束を着た、朝の公園にはふさわしくない大嶺佑史リポーターの姿。散歩に来ていた犬に吠えられながら、私たちの最後にして最大の挑戦はスタートした。</p>

<p>しかし、一日目にして雲行きは怪しかった。目標の半分のお寺も回ることができなかったのだ。加えて、やはり私はリポートが下手なままだった。お寺について、どうコメントすればいいのか分からない。また、番組にはほとんど使われていないが、実は車中でもずっとカメラを回していた。私と大嶺リポーターは、放送に使えるか使えないかは別として、ほぼ喋りっぱなしの状態だった。呂律が回らなくなっていた場面もあるほどだ。それだけ喋ったのにも関わらず、私は自分が何を言ったのか記憶にない。きっと、ただダラダラと話していただけだったのだろう。自分の力不足を痛感した。けれど、すぐに変われるはずもなく、二日目以降もさしたる成長の見られないまま撮影は終わってしまった。</p>



<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110601_saitou_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="200" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 華蔵院に伝わる鰐口</div>
</div>


<p>こうして思い返してみると、どうしても苦い思い出ばかりが先に出てきてしまうが、もちろんそれだけではない。撮影中、たくさんのふれあいがあった。「お大師さま、ご苦労様」と言って、声をかけてくれる方々。道に迷った私たちを案内してくれたおばあちゃん。花蔵院で、大事にしまってある鰐口を特別に見せていただいたこと。出会った人の温かさや多摩の広さを、改めて知った数日間だった。</p>

<p>これまでの人生で、「なんとか成功させたい」と願い、こんなにもがむしゃらに取り組んだことがあっただろうか。ぱっと見れば、ただの体当たり企画かもしれない。けれど、その中にある「新しい多摩探検隊」を作ろうとした私たちの意図を、少しでも汲み取っていただけたら。少しでも伝えられたのなら。私たちの頑張りは、無駄ではなかったと言えるだろう。そして高尾山のときと同じく、生涯、私がこの数日間を忘れることは、きっとない。全速力で駆け抜けた、多摩探検隊の隊員としての最後の挑戦を。</p>]]>
        
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    <title>多摩八十八ヶ所巡り</title>
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    <published>2011-05-31T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-10-22T14:45:58Z</updated>

    <summary>多摩八十八ヶ所、という霊場をご存じだろうか。簡単に言ってしまうと、有名な四国八十八ヶ所霊場の多摩版のようなものだ。昨冬、「多摩探検隊」の企画として、私たちは多摩八十八ヶ所を巡った。私はその番組のプロデューサーを務めた。 ...</summary>
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        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>多摩八十八ヶ所、という霊場をご存じだろうか。簡単に言ってしまうと、有名な四国八十八ヶ所霊場の多摩版のようなものだ。昨冬、「多摩探検隊」の企画として、私たちは多摩八十八ヶ所を巡った。私はその番組のプロデューサーを務めた。</p>

<div class="photo float-r">
<div class="photo_image"><img src="../images/20110601_tama88-1_03.jpg" alt="[画像]" width="240" height="178"  /></div>
<div class="photo_caption">▲ 一番札所安養寺からスタート</div>
</div>

<p>多摩八十八ヶ所を取り上げるきっかけは、一冊の本だった。FLP演習室に誰かが置き去りにした『多摩八十八ヶ所巡拝のしおり』。その本のタイトルを目にしたとき、「回ってみたら面白そうだなあ」と思った。私は長年多摩地区で暮らしてきたが、多摩八十八ヶ所の存在を全く知らなかった。全長四一〇キロメートルの道程。「厳しいであろう道のりを、敢えて辿ってみたい」。強い冒険心を抱き、私は多摩八十八ヶ所を巡る番組を制作しようと決意した。</p>

<p>しかし、ただ観光のように八十八ヶ所を巡るだけでは面白くない。視聴者に楽しんでもらうためには、なにか若者らしい挑戦をしなければいけないと思った。そこで私は、通常七日間ほどかかる多摩八十八ヶ所を三日間で回るという無謀な目標を設定した。こうして、「多摩あるきたい！多摩八十八ヶ所巡りの旅」という企画がスタートした。四年生の私にとって、卒業前の最後にして最大の挑戦である。</p>

<div class="photo float-r w180">
<div class="photo_image"><img src="../images/20110601_tama88-1_02.jpg" alt="[画像]" width="179" height="240"  /></div>
<div class="photo_caption">▲ ゴールの高幡不動尊</div>
</div>

<p>そうして撮影に臨んだものの、私たちははじめから大きくつまづいてしまった。三日間で八十八ヶ所を巡るためには、一日に三〇ヶ所は回る必要がある。だが、数々の不運も重なり、撮影初日には一一ヶ所しか回ることができなかったのだ。ここから予定は大きく狂った。「三日間で八十八ヶ所を回る」といいながら、四日間で回る企画に変更せざるを得なくなった。思っていた以上に多摩地域は広かったのである。当然リポーターを引き受けてくれた二人にも大きな負担をかけてしまい、疲労は積み重なる。さらに、企画変更に伴うディレクターの心労は留まるところを知らなかった。「こんな企画を設定したのは誰だ！」と罵りたい気分にもなったが、企画者は私である。</p>

<p>それでも、なんとか撮影は終わった。だが、疲れと迷いは残った。「本当にこの企画で良かったのだろうか」。ひたすら悩んだ。だが、編集をしているうちに、撮ってきた映像を見ているうちに、私は大切なことを思い出した。</p>

<p>ある寺の住職さんは、「八十八ヶ所を回るなんて大変でしょうけど、若い人が寺に興味を持ってくれて嬉しい。頑張ってください」と言って、取材を許可してくださった。白装束を着たリポーターに「あら、お遍路さん？大変ねえ」と声をかけてくれた人がいた。お寺への道に迷ったときに、親切に教えてくださった方々がいた。</p>

<p>八十八か所巡りの由来をしっかり勉強したこと。華蔵院（青梅市）に伝わる重要有形文化財「鰐口」を撮影させていただいたこと。高幡不動の金剛寺境内に山内八十八カ所が存在することを知ったこと。などなど、今回の旅で得た知識と感動は、計り知れないことに気づいたのである。</p>

<div class="photo float-r">
<div class="photo_image"><img src="../images/20110601_tama88-1_01.jpg" alt="[画像]" width="240" height="177"  /></div>
<div class="photo_caption">▲ あるきたい！の撮影風景</div>
</div>

<p>最初は、冒険心や好奇心にまかせて始めた無茶苦茶な企画だったが、やってみると、得たものは多く、１つ１つが心に残るものだった。普通の大学生がやらない八十八カ所巡りをやってみて、初めて多摩に眠る重宝や信仰、人々の温かさなどを発見できたのだ。</p>

<p>企画は、「多摩八十八ヶ所巡りの旅」という三回シリーズの番組として結実し、二〇一一年三月から三カ月連続で放送が始まった。</p>

<p>「多摩あるきたい！多摩八十八ヶ所巡りの旅」という卒業証書を抱いて、私は、中央大学を卒業する。四年間の大学生活の最後に、この番組を制作・放送することができて、本当に幸せだったと思いながら...。</p>

<p>（筆者は、二〇一一年四月から、早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコースに在籍）</p>]]>
        
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    <title>自分が一回り成長した場所、奥多摩</title>
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    <published>2011-04-30T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-24T02:57:17Z</updated>

    <summary>私は、第八〇回多摩探検隊「掘り起こせ！幻のジャガイモ」でリポーターを務めた。この番組は、奥多摩の山奥で古くから栽培されているジャガイモ「治助」を探してリポーターが奥多摩を訪ね歩くというものだ。治助は、アメリカ大陸の原産に...</summary>
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        <![CDATA[<p>私は、第八〇回多摩探検隊「掘り起こせ！幻のジャガイモ」でリポーターを務めた。この番組は、奥多摩の山奥で古くから栽培されているジャガイモ「治助」を探してリポーターが奥多摩を訪ね歩くというものだ。治助は、アメリカ大陸の原産に近いDNAを持つ可能性もあると言われ、奥多摩では家庭菜園だけで生産・消費されてきた。このため、都心ではお目にかかれない、いわば幻のジャガイモである。</p>

<p>二〇一〇年六月、まだジャガイモの花も咲かない頃から撮影が始まった。私にとってこの「治助」は、ゼミに入って初めて取り組んだリポートだった。</p>

<p>そして、初めてJR青梅線に乗った。車窓から見える緑は、どんどん深くなっていく。終着駅・奥多摩駅に降り立って、すぐに撮影が始まった。奥多摩の街を歩き、地元の方々に「治助」を知っているか、と尋ねた。返答はほとんどが「知らない」というものだった。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110501_oominato_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 緑が深い奥多摩</div>
</div>


<p>奥多摩町役場で、現在も栽培している農家があると聞き、さっそく役場前からバスに乗って、峰谷という集落へ向かった。バス停で、「治助」を育てている大野利明さんが待っていてくださった。これからインタビューをしていく大野さんを前に、一気に緊張が走った。カメラの前で、リポートをしなければならないという責任が重くのしかかってきたからだ。上手くリポートができるだろうか。大野さんの言葉をしっかりと引き出せるだろうか。不安は大きくなる一方だった。</p>

<p>ガチガチになっている私に向かって、大野さんは「緊張しなくて大丈夫ですよ」と優しく声をかけてくれた。その言葉で一気に緊張が解け、自然と笑顔になった。そして、1回目の撮影とインタビューをなんとか終えて、無事に帰路についた。</p>

<p>しかし、ドキュメンタリーを制作するには、幻のジャガイモ「治助」の成長をおわなければならない。それから、幾度となく青梅線に乗り、大野さん宅を訪れた。葉が出始めた時、花が咲いた時、そして「治助」の収穫の時...。最初こそ緊張していたリポートだったが、撮影を経るごとに、大野さんと自然に会話できるようになっていった。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110501_oominato_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 畑での芋掘りリポート</div>
</div>


<p>最後の撮影は、「治助」の収穫のシーンだった。お孫さんの彩ちゃん、椋(りょ)馬(うま)くんと山間の急斜面に作られた畑に収穫へ向かった。二人とも、おじいちゃんの作る「治助」が大好きだという。収穫の時期にはいつもおじいちゃんのお手伝いをしているらしく、虫を怖がる私をよそに率先して畑に入っていた。子ども用の小さな鍬を振るお孫さんを見る大野さんは、本当に優しい顔をしていた。
最後のインタビューの中で、大野さんは作りにくいジャガイモを作り続ける理由について、「母の味だから」とぽつりと話した。少し照れていらっしゃったが、その目の中には、大野さんのお母さんがいるように感じた。大野さんから、その言葉を引き出せたことを自分ながら嬉しく思った。</p>

<p>最後の撮影から、およそ二カ月。ゼミ生の前で、初めて番組が試写されることになった。町役場の方にインタビューをしている姿や、実際に芋を掘っている姿。様々な場面で、皆が笑ってくれた。この時初めて、私はリポーターという役割をきちんと果たせたのだと、安心した。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110501_oominato_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 孫たちと一緒に収穫したイモ</div>
</div>


<p>今回の番組制作を通して、私は初めて奥多摩を訪れた。奥多摩の、さらに山奥で、私は一回り成長することが出来た。番組制作に最初から最後まで携わり、自分に、少し自信がついた。</p>

<p>すべての撮影を終え、奥多摩から家路に向かう電車の車窓から見える山々は、なんだか昔から馴染みの景色に思えた。</p>]]>
        
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    <title>原種に近い幻のジャガイモ「治助」を追って</title>
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    <published>2011-04-30T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-23T14:22:36Z</updated>

    <summary>「治助」というジャガイモをご存じだろうか？治助とは、奥多摩町でしか手に入れることが出来ない原種に近いDNAを持つと言われるイモである。今回は、幻のジャガイモ、治助の正体を追い、DNA鑑定まで行った。その一部始終を、十分間...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<p>「治助」というジャガイモをご存じだろうか？治助とは、奥多摩町でしか手に入れることが出来ない原種に近いDNAを持つと言われるイモである。今回は、幻のジャガイモ、治助の正体を追い、DNA鑑定まで行った。その一部始終を、十分間のVTRにまとめた。完成したVTRは第八〇回多摩探検隊『掘り起こせ！幻のジャガイモ』として放送された。私は、ディレクターとしてこのVTR制作に携わった。</p>

<p>二〇一〇年三月上旬。私は杉の木が生い茂る奥多摩町に出掛けた。目的は、番組の企画を探すことだった。都心ではあまり知られていない奥多摩には、まだまだ隠されている面白い話題があるのではないかと思ったからだ。</p>

<p>駅舎を出ると、すぐに奥多摩町役場があった。中に入り、何か地元色があるものは無いだろうかと探していると、壁に町内新聞が貼ってあるのに気付いた。記事には「治助の種芋を募集」、と書いてある。治助...その素朴な名前に惹かれた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110501_matsuno_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 急斜面の「坂畑」で治助は栽培されている</div>
</div>


<p>そうして、私は治助を栽培している農家の大野利明さんと出会った。林業を営んでいた大野さんは、日に焼けてがっしりした"山男"だった。大野さんは、土の形状やかぶせ方や肥料の組み合わせを小学生の頃から独自に研究しており、治助の品種を変えずに育てることができるのだという。「治助の栽培方法を記録しているのか」と尋ねると、ただ微笑んで自分の頭を人差し指で指した。「治助のことは、すべて頭に入っている」。そう呟く大野さんの姿は、まぶしかった。治助と、治助を守り続ける大野さんの姿を、映像で伝えたい！私は、強くそう思った。</p>

<p>初めて大野さんと出会ってから、治助栽培の様子を三か月も追い続けた。そして、ついに治助を収穫することになった。収穫した治助は、自家製の味噌をつけて頂いた。「これはおふくろの味なんだ」「治助は親の遺産」。微笑みながら、嬉しそうに治助を食べる大野さんは、まるで子どものようだった。治助そのものの魅力に加え、家族で代々、愛をこめてジャガイモを受け継いできたという事実に、私は感動した。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110501_matsuno_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲　治助は親の遺産、と話す大野利明さん</div>
</div>


<p>撮影も終了し、ドキュメンタリーの編集が後半に差し掛かった頃、ゼミ生の指摘で「治助のルーツはどこにあるのか」という疑問がわいてきた。そもそも「治助」とはなにか？そこから、治助のルーツ探しが始まった。</p>

<p>農林水産省の研究所に電話し、最終的に北海道でDNA鑑定をして頂いた。その結果、治助は、明治や大正時代に輸入された男爵薯やメークインよりも早く、日本に存在していることが分かった。日本にやってきた年代はまだ特定出来ないが、明治や大正時代に輸入された一般的なイモとは違うDNAを持つそうだ。つまり、かなり早い段階で日本に輸入された原種にちかいジャガイモが、何ら変化せずに奥多摩で残っていたのだ。改めて、治助のドキュメンタリーを制作することに大きな意味があると思った。</p>

<p>VTRが完成するまで、私は様々な場所に電話をかけた。電話でお話しただけで、直接会うことのなかった人もいるが、どの人も皆、温かかった。VTRは、決して一人で制作できるものではない。たくさんの人に支えられて、幻のイモ「治助」の全容を明らかにすることができた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110501_matsuno_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 小粒で細長い治助イモ</div>
</div>


<p>VTR制作を通して、私はかけがえのないものに出会うことができた。幻のジャガイモ、「治助」。そしてそのイモを愛し、歴史をつなごうとする大野さん。大野さんが大切にしている家族の絆。電話を通じて知り合った人々の温かさ。番組制作を行うことで、こんなにも多くの人と関わるとは、思ってもいなかった。</p>

<p>一見すると何もない山の中にも、確かな絆が存在していた。イモ「治助」に加えて、新たな出会いという収穫があったことを、私はきっと忘れないだろう。</p>
]]>
        
    </content>
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    <title>わさび職人の笑顔に支えられて</title>
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    <published>2011-02-28T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-15T15:35:30Z</updated>

    <summary>                          ▲ 完成した番組 二〇一〇年十一月に放送された、第七十九回多摩探検隊『奥多摩のわさび職人』。これは、わさびの名産地である奥多摩で、約五十年に渡りわさび栽培を続ける職人、...</summary>
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        <name>中央大学FLP松野ゼミ Web班</name>
        
    </author>
    
        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110301_wasabi_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="202" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 完成した番組</div>
</div>


<p>二〇一〇年十一月に放送された、第七十九回多摩探検隊『奥多摩のわさび職人』。これは、わさびの名産地である奥多摩で、約五十年に渡りわさび栽培を続ける職人、千島国光さんを追った十分間のドキュメンタリー番組である。わさび作りが生きがいだと語る千島さんは、七十七歳でありながら、山奥にあるわさび田に毎日通い続けている。私は二〇一〇年の夏から秋にかけて、ディレクターとしてこの番組を制作した。しかし、一つだけ普通の番組制作とは異なることがあった。</p>

<p>番組を制作する際は本来、題材を探し、取材を進め、撮影を行うことから始める。しかし、この番組の場合、映像のほとんどが先輩によって既に撮影されたものだったのだ。取材や撮影が大きく省かれた反面、私は本来とは違うプロセスで番組を制作することに強い不安を覚えていた。「初めて作る番組なのに、ちゃんと完成させられるだろうか」。そう思いながら、番組制作は始まった。</p>

<p>二〇一〇年八月。セミの声がしきりに響く中、私は奥多摩の山道を登っていた。千島さんの所へ行き、足りない映像を撮影させてもらうためだ。十五分ほど歩いて、小さなわさびの直売所に着くと、一人のおじいさんが私を迎えてくれた。モニターの中で何度も目にしていた千島さんだ。手際良く作業する姿は、映像で見るよりもさらに元気そうに見えた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110301_wasabi_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="201" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ わさびを擦り卸すシーン</div>
</div>


<p>早速、事情を説明し、お店の撮影をしていると、千島さんが奥から一本のわさびを持ってきた。誇らしげに掲げられたそのわさびは、とても大きく、まっすぐで、眩しい黄緑色を放っていた。千島さんのわさびは、品評会で過去に何度も入賞しているという。「すごいでしょ」。千島さんが満面の笑みを浮かべながら言った。それはまるで、手塩にかけて育てた我が子を見る父親の笑顔のようだった。私はその時、初めて心の底から「この職人のわさび作りに対する愛情を伝えたい」と思えるようになっていた。</p>

<p>撮影が終わると、編集作業が始まった。初めての作業ばかりで、ひどく苦戦した。何度も先輩に相談しながら構成を考え、大学に一人通っては、冷房も効かない部屋で編集する日々が続いた。あまりの暑さに集中できない日もあった。一日中土砂降りで、家から出たくない日もあった。それでも、私は千島さんの情熱を形にすべく、毎日のように大学に通っては、編集用のパソコンと向き合った。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110301_wasahi_3.jpg" alt="[画像]"
             width="240"height="202"/>
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 夏休みに通い詰めた編集部屋</div>
</div>


<p>一通り編集を終える頃には、秋学期が始まっていた。そして、すっかり涼しくなった十月中旬、ようやく番組が完成した。</p>

<p>編集に明け暮れた日々を思い返せば、どれも辛かったことばかりだ。しかし、私が諦めずにここまで努力できたのは、ひとえに千島さんの生き生きとした笑顔に触れたからだと思う。今でも辛いことがあると、完成した番組をつい見返してしまう。たった十分間のドキュメンタリーを見る度に、父親のような職人の笑顔が甦る。その笑顔が、それとなく自分を勇気づけてくれている気がするのだ。<\p>

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    <title>「子ども放送局」というきっかけ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tamatan.tv/diary/20110301_akishima/" />
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    <published>2011-02-28T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-24T02:57:44Z</updated>

    <summary>二〇一〇年十一月。私は、二日間にわたり、昭島市立つつじヶ丘南小学校の児童十二名と「昭島子ども放送局」を行った。子ども放送局とは、小中学生が自分の住む街を紹介する番組を制作し、地域の魅力を再発見しようというものだ。子供たち...</summary>
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        <name>中央大学FLP松野ゼミ Web班</name>
        
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        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<p>二〇一〇年十一月。私は、二日間にわたり、昭島市立つつじヶ丘南小学校の児童十二名と「昭島子ども放送局」を行った。子ども放送局とは、小中学生が自分の住む街を紹介する番組を制作し、地域の魅力を再発見しようというものだ。子供たちが取材、企画、撮影、編集をして、私たち大学生は、子供たちの活動をサポートする。私はプロデューサーとして、この子ども放送局の統括を行った。</p>

<p>今回番組では、昭島市で毎年行われている、昭島市産業まつりをリポートした。今年で六年目になる「昭島子ども放送局」では、過去に何度か昭島市産業まつりを取り上げてきた。そのため「どうやって番組に新鮮さを持たせるか」ということが、大きな課題だった。先生や他のゼミ生にも相談しながら、何日も考えた。そして出した結論は、「子どもの年齢を下げる」というものだった。今まで一緒に活動してきたのは、小学校高学年の子どもが中心だ。そこに小学校三年生の子どもも加えて、一緒に番組を作ろうと考えたのだ。</p>

<div class="photo float-r">
<div class="photo_image"><img src="http://www.japanfilm.net/kodomotvweb/diary/images/20110301_akishima_01.jpg" alt="[画像]" width="240" height="179"  /></div>
<div class="photo_caption">▲ 撮影の準備をする子供たち</div>
</div>

<p>それから小学校の先生方と何度も相談を重ねた。子ども放送局のプレゼンテーションや打ち合わせをして、小学三年生の子どもとも一緒に活動できることになった。こうして、六年生八名、三年生四名の合計十二名と行う、子ども放送局が始まった。</p>

<p>撮影当日、子どもたちと初対面した。子どもたちはみんな笑顔で挨拶をしてくれたが、その中に一人、表情が硬い子どもがいた。小学三年生の女の子だった。彼女は撮影前の話し合いでも、みんなの意見を聞いているだけで、自分の考えを発言していなかった。私は、「せっかく参加してくれたのだから、この二日間を彼女のためになるものにしてあげたい」と思い、積極的に彼女に話しかけた。彼女は「撮影を頑張りたいけれど、話すのが苦手なので不安なんです」と言っていた。そこで、私は彼女と一緒に何度も練習して、本番に備えた。</p>

<div class="photo float-r">
<div class="photo_image"><img src="http://www.japanfilm.net/kodomotvweb/diary/images/20110301_akishima_02.jpg" alt="[画像]" width="240" height="180"  /></div>
<div class="photo_caption">▲ 全員で産業まつりをリポートする様子</div>
</div>

<p>そして、彼女がリポートする番になった。私は少し不安だったが、カメラを向けると、その心配もすぐに無くなった。彼女は初めてとは思えないほど、上手にリポートしてくれたのだ。「すごく上手だよ」と褒めてあげると、彼女は「やったー！」と嬉しそうにほほ笑んだ。その瞳はキラキラと輝いていた。撮影が終わる頃には、彼女は、仲間のリポートにアドバイスしてあげるようにまでなっていた。彼女を含め、子どもたちは、より良い番組を作ろうと一生懸命だった。その姿を見ていると、私も「子どもたちがあんなに一生懸命なんだから、もっと頑張らなきゃ」と、さらに撮影に力が入った。だんだんみんなの気持ちが一つになっていったような気がした。撮影が終わると、子どもたちから自然と拍手が湧いた。その中で一番大きな拍手をしていたのは、始めは誰よりも自信がなさそうだった、あの女の子だった。他の子に「お疲れさま」と声を掛ける彼女の表情は、達成感に満ち溢れていた。</p>

<div class="photo float-r">
<div class="photo_image"><img src="http://www.japanfilm.net/kodomotvweb/diary/images/20110301_akishima_03.jpg" alt="[画像]" width="240" height="179"  /></div>
<div class="photo_caption">▲ 子供たちが映像を編集している様子</div>
</div>

<p>撮影から二週間後には、撮った映像を編集した番組の上映会を行った。上映会には、子どもたちの担任の先生や保護者の方々にも来ていただいた。上映中には、笑い声と感嘆の声があがり、最後は教室中が大きな拍手に包まれた。三年生の担任の先生も「三年生でもこんなに上手にリポート出来るなんて、驚きました」と、感動していた。始めは自信がなさそうだったあの女の子は、その様子を誇らしげに見ていた。その姿は、初めて出会った二週間前よりも、一回りも二回りも大きく見えた。</p>

<p>そして別れの時、女の子は私のもとに駆け寄ってきて、満面の笑みでこう言った。「二日間を通して、自分に自信を持てるようになったよ。子ども放送局に参加して本当に良かった。ありがとう」。その言葉に、私は涙を止めることができなかった。子ども放送局が、彼女の成長のきっかけとなった。そして、プロデューサーとして、私がそのきっかけを与えることができた。それが何よりも嬉しかった。それに私も彼女から教えてもらった。あきらめずに何度も挑戦することの大切さ、苦手は乗り越えられるのだということ。小学生をサポートするつもりが、私のほうが、学ばせてもらった二日間だったかもしれない。彼女たちに出会えたことを幸せに思った。</p>

<p>子どもたちは家に向かって歩きながら、何度も後ろを振り返り、手を振ってくれた。「この二日間で得た自信が、彼女たちの心の中でいつまでも生き続けますように」。そう思いながら、夕日に消えていく子どもたちの背中を、私はいつまでも見つめていた。</p>]]>
        
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    <title>日本で得た「仲間」</title>
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    <published>2011-01-31T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-23T14:24:59Z</updated>

    <summary>二〇一〇年五月三〇日、第七八回多摩探検隊『中国人に聞く！～高尾山編～』で、初めてのリポートに挑戦した。私にとって、初めての高尾山、初めての番組制作、初めてのインタビューであった。今回、私は番組のリポーターを担当することで...</summary>
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        <name>中央大学FLP松野ゼミ Web班</name>
        
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        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<p>二〇一〇年五月三〇日、第七八回多摩探検隊『中国人に聞く！～高尾山編～』で、初めてのリポートに挑戦した。私にとって、初めての高尾山、初めての番組制作、初めてのインタビューであった。今回、私は番組のリポーターを担当することで、自分自身が大きく成長できたのではないかと思っている。</p>

<p>私は、中国の上海からやって来た留学生だ。中国にいた時はまさか、日本で、しかも日本の大学生と番組を制作するなどとは思ってもいなかった。だから、最初はとても不安だった。日本の大学生とコミュニケーションがとれるのか、言葉の違いに戸惑ったりしないだろうか、うまく話せるだろうか･･･。撮影前日まで、何回もセリフを読んで暗記し、練習した。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110201_shu_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲何回も取り直した、冒頭部分</div>
</div>


<p>本番当日、現場に行くと思った通りに撮影は進まなかった。撮影しているときに、日本の大学生が話す言葉が、聞いたことが無い言葉ばかりだったのだ。日本語の日常会話には自信があったのに･･･。とても戸惑った。そんな中で、撮影は始まった。最初に撮影したのは、番組冒頭の挨拶の部分で、高尾山のモノレール駅入口前でリポートするものだった。周りにはたくさんの観光客がいたので、とても恥ずかしかった。だが、恥ずかしがりながらのリポートが、うまくいくわけがない。「もっと大きな声で。がんばりましょう！」と、撮影スタッフに笑顔で励ましてもらった。言葉がうまく出ず、最初の挨拶の部分は十回以上撮りなおした。でも、回数を重ねるうちに、だんだん恥ずかしい気持ちを克服することができた。</p>

<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110201_shu_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="180" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲中国人にインタビュー</div>
</div>


<p>やっとの思いで、恥ずかしい気持ちを克服して、中国人観光客を探しに出発した。しかし、午前中はあまり中国人に会えなかった。二時間ぐらい登山口で待って、ようやく一人目の中国人を発見した。「多摩探検隊」のことを説明し、お客さんの許可を得て、インタビューを始めた。中国人観光客と中国語でインタビューしたので、私にとってはとても楽だったと思われるかもしれない。しかし、実際は非常に難しかった。私はただ聞いているだけではなく、自分のコメントと感想をアドリブで話さなければならなかったからだ。質問項目を考えて質問し、相手の答えを聞いて、その後に自分のコメントを言う。それは思ったより難しいことだった。最初の三人はうまくできなかった。けれど、自分の母国の人たちと話すことは、とても楽しかった。それに、間違ったとき、戸惑ったときには、いつも撮影スタッフの日本の大学生が、優しく励ましてくれた。スタッフの笑顔を見ると、自然と「がんばろう」と思える自分がいた。おかげで、四、五人目になるとリラックスしてインタビューできるようになった。</p>

<p>撮影が進むにつれて、ディレクターだけでなく、撮影に参加したスタッフ全員が一体になった気がした。日本の大学生たちも、少し中国語で話しかけてくれた。私は、そのことが本当にうれしかった。もっと、撮影スタッフと一緒にいたかった。もっと、お互いのことを知り、理解し、仲良くなれるのではないかと思った。</p>

<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110201_shu_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="179" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲山頂の景色はいかに？！</div>
</div>


<p>今回の撮影を通して、私のコミュニケーション能力が上がったような気がする。インタビューに答えてくれる人を探し、自分がやっていることを説明し、お客さんに撮影の許可をもらった。そして、会話のキャッチボールをすることができた。</p>

<p>番組が完成してから、上海にいる父と母に、番組を収めたＤＶＤを送った。大学の成績からは決して分からない、生き生きとがんばっている私の姿を、両親もきっと見てくれたのではないかと思う。そして、今度、上海に帰ったときには、日本でできたかけがえのない仲間について話そう。私は今、そんなことを考えている。</p>
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    <title>心の支えになった写真</title>
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    <published>2011-01-31T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-23T14:25:18Z</updated>

    <summary>あなたは、高尾山に多くの中国人観光客が訪れていることをご存じだろうか。 高尾山は、観光ミシュランで三つ星に選ばれたこともあり、老若男女問わず人気が急上昇している。そこを訪れる外国人観光客の中でも、特に多いのが中国人だとい...</summary>
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        <name>中央大学FLP松野ゼミ Web班</name>
        
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        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<p>あなたは、高尾山に多くの中国人観光客が訪れていることをご存じだろうか。</p>

<p>高尾山は、観光ミシュランで三つ星に選ばれたこともあり、老若男女問わず人気が急上昇している。そこを訪れる外国人観光客の中でも、特に多いのが中国人だという。その話を聞いた私は、高尾山を訪れる中国人観光客にその魅力を聞くという番組を、ディレクターとして制作した。完成した番組は、第七八回多摩探検隊『中国人に聞く！～高尾山編～』として関東と九州の計八局のケーブルテレビ局で放送された。番組では、リポーターとして中国人留学生の朱敏華さんに、中国語でインタビューしてもらった。つまり、番組は全編中国語だ。この試みは、「多摩探検隊」では初めてのことだった。前例がないことに挑戦する私は、不安を感じつつも、面白いものを作ろうと決意していた。</p>

<p>二〇一〇年五月三〇日、日曜日の早朝。眠い目をこすりながら、私は「高尾山口」行きの電車に揺られていた。暖房の効かない車内は、春といえども少し肌寒い。車窓から外の景色をぼんやりと眺めた。東京近郊にもかかわらず、車窓からは新緑の風景が広がっていた。私は右肩に、大きな黒のカメラバックをかかえていた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110201_yumei_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="179" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲多くの中国人にインタビューすることができた</div>
</div>


<p>高尾山口駅に到着し、撮影スタッフ五名が集合した。リポーターの朱さんも、ディレクターの私も初めての撮影だ。お互い、緊張していた。その緊張感は、スタッフ全員に伝わっていた。私は、不安に駆られながら、高尾山を登り始めた。
いざ撮影を開始すると、朱さんは生き生きと上手にリポートを始めた。私は安心する一方で、自分だけが置いて行かれたような気分になり、焦っていた。朱さんが中国人観光客にインタビューをしている時、その焦りはさらに強まった。というのも、話されている言葉は、もちろん全て中国語。何を話しているか全くわからなかったのだ。ディレクターである私が、インタビューの内容をわからないままに撮影が進んでいく。思っていたよりも言葉の壁は厚いことに気づいた。ますます私は、置いてけぼりにされているような感覚に陥っていた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110201_yumei_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="179" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲番組内で、そばのリポートも行った</div>
</div>


<p>編集作業の段階で、私は再び言葉の壁にぶつかった。中国語がわからないのは、撮影でも編集でも同じだ。その上、編集でうまくつながらない場面がいくつもある。パソコンのマウスを握る手が止まった。私は何をやっているのだろう、本当に番組になるのだろうか。そう思うと、ますます憂鬱になり、番組の編集をやめてしまおうかとさえ思った。</p>

<p>そんなとき、朱さんが一枚の写真を私に持ってきた。高尾山で撮った「朱さんと私の笑顔のツーショット」だ。なんだか泣きそうになった。私は朱さんになかなか編集が進まない状況を説明した。朱さんはにっこりと微笑んだ後、「由芽、あなたなら絶対に面白いものが作れる！頑張って！」と言ってくれた。彼女は、この番組が完成することを本当に楽しみにしてくれていたのだ。そうだ、この企画を番組にしようと思ったのは、絶対に面白いものになると思ったからだ。そして完成を楽しみに待ってくれている人もいる。私は、再びマウスを握り、編集を再開した。朱さんに中国語を訳してもらい、私がテロップを打ち込む。そういう作業を、何日も何日も繰り返した。初めての撮影から、約二か月。編集を無事にやり遂げ、完成した番組はケーブルテレビで放送された。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20110201_yumei_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="179" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲朱さんとの写真</div>
</div>


<p>この番組制作を通して、自分の何が変わったのだろうか。一番大きなことは、自分に自信がついたことだ。この番組を制作していく中で、撮影準備、打ち合わせ、撮影、編集と、本当に長い時間がかかった。その中で、私は何度も壁にぶち当たった。思い返すと確かに大変な作業だった。何度もくじけそうになった。しかし、なんとか無事に、番組を制作・放送することができた。全力で何かに取り組み、結果を出す強い意志を持ち続けること、そして目に見える形でアウトプットを出す大切さを知った気がする。</p>

<p>これからの人生の中で、私はまた何度も壁にぶつかることだろう。それでもその時には、今回の一連の番組制作の努力と成果を思い出してがんばろうと思う。朱さんと私が笑顔で写っているツーショットの写真を片手に、私は強くそう思った。</p>
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    <title>特攻基地「知覧」の現場で考えたこと</title>
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    <id>tag:www.japanfilm.net,2010:/tamatanweb/diary//3.178</id>

    <published>2010-11-30T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-15T17:03:49Z</updated>

    <summary>2010年7月7日。年に一度の七夕の日、私は鹿児島県にある知覧にいた。空を見上げると、東京では見ることのできない数多くの星が瞬いていた。                          ▲ 開聞岳 私たち多摩探検隊は、...</summary>
    <author>
        <name>中央大学FLP松野ゼミ Web班</name>
        
    </author>
    
        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<p>2010年7月7日。年に一度の七夕の日、私は鹿児島県にある知覧にいた。空を見上げると、東京では見ることのできない数多くの星が瞬いていた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20101201_tiran_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="202" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 開聞岳</div>
</div>


<p>私たち多摩探検隊は、名前の通り、多摩に埋もれている話題や人物を掘り起こし、番組を制作している。毎年8月には、4年生の卒業制作として、多摩地域にあった戦争をテーマに取り上げており、今年で6作品目となる。2010年8月放送は、かつて武蔵村山にあった東京陸軍少年飛行兵学校と、少年飛行兵の思いに迫った。私は番組プロデューサーとして制作に携わり、その過程で、多摩から遠く離れた知覧で撮影を行うこととなった。</p>

<p>それは6月中旬、長野県松本市在住の島田昌往さん（85歳）にお話を伺ったことがきっかけだった。島田さんは東京陸軍少年飛行兵学校を卒業し、19歳の時に特攻隊として出撃命令を受ける。そして、1945年6月、鹿児島県知覧飛行場から沖縄へと飛び立った。しかし、エンジンのオイル漏れで徳之島に不時着し、一命を取りとめた。</p>

<p>特攻隊員たちは知覧から出撃する前夜、「三角兵舎」という半地下式の建物の中で最後の夜を過ごした。島田さんは「俺は明日死ぬんだと、この世でいるのは今日だけなんだって思ったら、とても眠れたものではなかったよ」と語った。彼らはどのような思いで夜を過ごし、どのような思いで翌朝、空を見上げていたのだろうか。</p>

<p>島田さんの話を聞いた私たち取材班は、実際に島田さんが特攻隊として出撃した知覧を訪れてみたいと思った。島田さんや多くの特攻隊員たちが最後の夜を過ごし、沖縄へと飛び立っていった地で、彼らの軌跡を辿り、追体験したいと思った。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20101201_tiran_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="202" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 知覧の平和祈念会館</div>
</div>


<p>東京から800キロ離れた鹿児島県南九州市知覧町。知覧特攻平和会館には、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料が展示されている。その中のひとつに島田さんが所属していた「第百十一振武隊若桜隊」の集合写真があった。また、戦没者一覧の中には若桜隊11名中9名の名前が刻まれていた。</p>

<p>私たちは薩摩半島最南端の開聞岳にも足を運んだ。知覧飛行場から飛び立った特攻隊員は開聞岳に敬礼し別れを告げ、沖縄へと向かって行ったという。海の上に大きくそびえ立つ開聞岳を前に、島田さんの言葉を思い出した。</p>

<p>「開聞岳に敬礼した後ね、エンジン音に負けないくらい大きな声でおかーさーん、おとーさーんって泣きながら叫んだよ...」</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20101201_tiran_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="202" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 三角兵舎内部　ここで、特攻隊員は最後の夜を過ごした</div>
</div>


<p>開聞岳と海、そして空しか見えないこの景色は、65年前と変わらぬものなのだろう。大空に憧れた少年飛行兵たちは、家族への思いを抱き、開聞岳に背を向けたまま沖縄を目指した。日本本土に迫る来る米軍に対し、弱冠19歳前後の彼らが、特攻隊として突撃せざるを得なかった現実を知り、戦争の非情さと残酷さを実感した。</p>

<p>私たちは、60数年前に起きた戦争の現実を知りたいと思い、体験者に話を聞き、平和について考えた。どれだけの惨劇が起こったのだろうか...。特攻隊員たちが過ごし、沖縄へと飛び立っていった知覧の地にたたずんでみても、実際に体験することは不可能だ。しかし、目で耳で肌で感じ、想像することはできる。</p>

<p>「戦争はどんなことがあってもさせてもいけないし、させたくもない。私は生き残った人間として声を大にして言いたい」という島田さんの強い思いを、私たちは後世に伝えていく義務があると思う。
なぜ私たちは、戦争と平和のテーマをVTRにまとめているのか。戦争体験者の話し方、息づかい、感情を、そのまま伝えたい。そして、「現場」の様子、音、色などそのまま形に残し、VTRを見た人に追体験してもらうためだ。このことが平和への一歩となるのではないだろうか。これからも、多摩探検隊は戦争と平和を「現場」から考え、発信していきたい。多摩から、日本全国へ。</p>
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    <title>元・特攻隊員からもらった言葉</title>
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    <published>2010-11-30T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-24T02:57:59Z</updated>

    <summary>私が所属する多摩探検隊では、毎年8月に戦争と平和をテーマに番組を制作している。戦後65年にあたる今年は、東京都武蔵村山市に戦時中あった東京陸軍航空学校にスポットを当てドキュメンタリーを作った。そして、その番組は、第76回...</summary>
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        <category term="多摩探検隊" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tamatan.tv/diary/">
        <![CDATA[<p>私が所属する多摩探検隊では、毎年8月に戦争と平和をテーマに番組を制作している。戦後65年にあたる今年は、東京都武蔵村山市に戦時中あった東京陸軍航空学校にスポットを当てドキュメンタリーを作った。そして、その番組は、第76回多摩探検隊『東京陸軍航空学校　少年飛行兵の記憶』として放送された。私は、その番組にディレクターとして携わり、取材や撮影を行った。東京陸軍航空学校とは、少年飛行兵の育成のために開校された学校で、人々からは「東航」と呼ばれていた。東航には、難関の試験を突破した14歳から16歳の少年が入学し、1年間の訓練を積んだ後、各地の陸軍の施設でさらに訓練を受け、戦地へと赴いた。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20101201_hikouhei_1.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="159" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 跡地に残る東航正門跡（東京都武蔵村山市）</div>
</div>


<p>そもそも、少年飛行兵というテーマを見つけたのは2009年の11月のことだった。他の取材のために武蔵村山市を訪れていたとき、偶然バスの車窓から見えたのが、「陸軍少年飛行兵慰霊塔」という看板だった。半年後の2010年5月、8月放送のテーマを探している時に、ふとその看板のことを思い出した。調べてみると、戦時中、武蔵村山に少年飛行兵を育成する施設があったことが分かった。少年飛行兵の中には、特攻隊として犠牲になった人もいる。戦争とはあまり関係とはないと思っていた武蔵村山の地に、少年飛行兵を育成する施設があった。その事実はあまり多くの人には知られていないに違いない。「その事実を多くの人に伝えたい」。そんな思いから、番組制作が始まった。</p>


<p>番組のテーマは決まったものの、映像という形で伝えるためには、生の声で当時の思い出を証言する方を探さないといけない。しかし、高齢となった戦争体験者を探すことは、細い糸を手繰り寄せるようなものでなかなか見つけることができなかった。この方にお話を聞きたいと思い連絡をとっても、すでに亡くなっていたり、病気でお話を聞けないということもあった。そんなあくせくした日々が2週間ほど続き、このままでは放送に間に合わないと私は焦る一方だった。</p>


<div class="photo float-r">
    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20101201_hikouhei_2.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="160" />
    </div>
    <div class="photo_caption">▲ 元少年飛行兵・島田昌行さん（８４）</div>
</div>


<p>しかし、取材を続けていた6月の初め、東航を卒業し、戦地へと赴いたが、奇跡的に生き残った方が長野県松本市にいることがわかった。元少年飛行兵・島田昌往（まさゆき）さん（84）である。早速、島田さんに連絡をとり、インタビューを撮影させていただいた。それが番組の軸となった。さらに、島田さんの部隊の隊長の墓がある静岡県牧之原市や、島田さんが出撃した基地があった鹿児島県南九州市知覧町でもロケを行い、無事に番組は完成した。</p>


<p>約1年前、私が武蔵村山で慰霊塔の看板を見つけた時、その看板を出発点として番組を制作することは、全く考えていなかった。しかも、取材を進めていくうちに、少年飛行兵に関する取材は、武蔵村山から松本、そして知覧、静岡と、全国に広がっていった。ひとつの看板を出発として、日本各地に散らばる点を辿って行き、1本の線となっていくのを感じた。番組を制作している間、私は壁にぶつかるたびに、「番組制作をして何の意味があるのだろう」と自問自答していたこともあった。</p>


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    <div class="photo_image">
          <img src="../images/20101201_hikouhei_3.jpg"  alt="[画像]"
             width="240"height="173" />
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    <div class="photo_caption">▲ 島田さんが所属した若桜隊の集合写真。中央最上が島田さん。</div>
</div>


<p>その度に、私は島田さんから聞いた言葉を思い出していた。島田さんは、「長い間、戦争についての話をすることはためらわれた」と言った。生き残った人間として、戦争の話をすることは亡くなった人間に対して申し訳なく、そして、自分自身の辛かった思い出を追体験してしまうからだろう。それでも、語り続ける理由とは何なのだろうか。そういう問いをぶつけたとき、答えは、「自分が語ることで、少しでも戦争の悲惨さを後世に伝えることができたら」という言葉だった。</p>


<p>その言葉を前にして、私たちにできること。それは、きっと、1人でも多くの戦争体験者を探し出し、埋もれている言葉を掘り起こし、その声にカメラを向け記録し、伝え続けることだろう。そして、そこに私たちの活動の意味は間違いなくあるはずだ。いくつもの苦労を重ねて番組を完成させた今、私は自信をもって、そう思っている。</p>]]>
        
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    <title>昭島子ども放送局</title>
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    <published>2010-01-31T15:00:02Z</published>
    <updated>2011-11-15T17:11:33Z</updated>

    <summary>「このお仕事をしていて大変なことは何ですか？」 「うーん...、朝...早く起きなくてはいけないことですね。」 今年の冬、取材に行った和菓子屋のご主人と子どもレポーターのやりとりだ。少し、困りながらも、正直に答えてしまう...</summary>
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        <name>中央大学FLP松野ゼミ Web班</name>
        
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        <![CDATA[<p>「このお仕事をしていて大変なことは何ですか？」</p>

<p>「うーん...、朝...早く起きなくてはいけないことですね。」</p>

<p>今年の冬、取材に行った和菓子屋のご主人と子どもレポーターのやりとりだ。少し、困りながらも、正直に答えてしまうご主人の表情がカメラに収められている。もしかしたら、子どもにしか作り出せないと思える、クスッと笑える微笑ましい雰囲気だ。この雰囲気が「子ども放送局」の売りである、と私は思う。子ども放送局とは、子どもたちが自ら撮影、インタビュー、レポートを行って作る番組だ。大学生の私は、子ども達のサポート役として携わった。</p>

<p>昭島市にいくつか和菓子屋がある。その一つの和菓子屋のご主人は、カステラ作りを得意としている。ご主人が考案したカステラは、同じ昭島市で採れた、黄身が濃厚な卵を原料として使っている。今回、子どもたちはそのカステラ作りに挑戦したのだ。それだけでなく、冒頭にあったようにインタビューも行う。ご主人はもちろんのこと、ご主人のお父さんにもインタビューをした。子どもたちからすると「おじいちゃん」の年代だ。昔から、昭島市にあったお店で、おじいちゃんは昔の昭島の様子も語っている。子どもたちは、和菓子屋のおじいちゃんへのインタビューを通して、自分たちの住む町の歴史にも触れることができるのである。</p>
<p>子ども放送局は、子どもたちがメディアについて考えたり、実践することだけが目的ではなく、自分たちの住む地域について学んだり、その地域で今まで交流のなかった人と触れあうといった「地域再発見」「地域活性化」を一つの目的としている。</p>

<p>私は、昭島市以外の地域でも子ども放送局に携わってきたが、「地域活性化」という目的を達成するのは難しく、曖昧なものであるような気もする。一体どうしたら「地域活性化」と言えるのだろうか。その形というか、こういう番組を作って実際に変わったことはあるのだろうか。</p>

<p>子ども放送局に参加した当初、私は子どもたちの番組が完成できるように、サポートに必死になっていたが、少し経ってからそんなことを考えるようになった。</p>

<p>子ども放送局では放送だけでなく、出来上がった番組をDVDにして子どもに渡す。子どもたちは、嬉しそうに受け取ってくれる。そして、取材先である和菓子屋に届けに行った。ケーブルテレビ放送用に編集をした私は、和菓子屋さんのご主人と一緒に番組を観た。少し照れ臭そうだったが、「ありがとう」と喜んでくれた。ご主人の息子の赤ちゃんが、テレビに映っているお父さんを観て、一瞬唖然としていたのも印象的だった。すると、ご主人がカステラを買いにきたお客さんの話をしてくれた。その人は、番組に出演した子どもの親御さんらしい。一度は名前を名乗って来店したが、その後は「名乗らないで、でも、何回も来てくれているらしいよ」。</p>

<p>そう言えば、子どもの一人が話してくれた。「お父さん、あそこのカステラ気に入っちゃったみたい」。</p>

<p>子ども放送局を通して、地域の中で新しいコミュニケーションが生まれているのは確かかもしれない。それは、小さなものでなかなか形として表れることはなくても。子ども放送局が地域に目を向ける「きっかけ」になったみたいで良かったな、と思う。</p>
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    <title>「多摩だるま」職人の思いを伝える</title>
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    <published>2010-01-31T15:00:00Z</published>
    <updated>2011-11-23T14:28:16Z</updated>

    <summary>皆さんは、「多摩だるま」という手作りのだるまがあることを知っているだろうか。 大学２年の９月から３年の５月まで、私は多摩の名産品「多摩だるま」を作る職人を追い続け、８ヶ月かけて１本のドキュメンタリーを完成させた。タイトル...</summary>
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        <![CDATA[<p>皆さんは、「多摩だるま」という手作りのだるまがあることを知っているだろうか。</p>

<p>大学２年の９月から３年の５月まで、私は多摩の名産品「多摩だるま」を作る職人を追い続け、８ヶ月かけて１本のドキュメンタリーを完成させた。タイトルは、「多摩だるま ～受け継がれる手作りの心～」だ。</p>

<p>「多摩だるま」は、江戸時代から多摩地区で作り続けられている手作りのだるまである。特徴は、形が丸く、彫が深い顔をしていること。また、大きなものでは目の周りに金箔がほどこされる。昔、多摩では養蚕が盛んで、豊作を願う意味でどこの農家でもだるまが神棚に飾られていたという。かつては、別の場所から商人がだるまを売りに来ていたのだが、そのうち多摩にだるま職人が登場し、その伝統が今も続いている。</p>

<p>最近では、工場でプレス成型される大量生産品のだるまが多いが、多摩には、１個１個手作りの「多摩だるま」が、今でも生き延びているのだ。</p>

<p>今回取材させて頂いた「内野屋」は、そんな「多摩だるま」を約１００年、３代にわたり、専業で作り続けている老舗である。</p>

<p>JR箱根ヶ崎駅から徒歩３０分。東京都瑞穂町に「内野屋」の作業場がある。庭先にずらりと干された赤塗り前の白いだるまの大群に迎えられ、私は作業場に足を踏み入れた。だるま職人の内野治さん（43）は、だるまの顔を描く作業の真っ只中であった。黙々と作業をする内野さんはとても真剣な眼差しで、取材しているこちらも緊張するほどだった。</p>

<p>そして、取材はだるまのように、まさに七転び八起きだった。最初の頃は緊張で、聞きたい事もなかなか聞けず空回りしてばかりだった。２回、３回と取材を重ねるうちに内野さんとも打ち解け、少しずつ話を聞けるようになった。だるま作りの工程やインタビューの撮影にも親切に協力して頂き、取材は順調に進んだ。</p>

<p>ずらりと並んだだるまの群れの中で1人黙々と作業する内野さん。彼の筆はまるでなぞる線が見えているかのようによどみなく動き、彫りの深い凛々しいだるまの顔が浮かびあがってくる。私はその姿に見惚れた。</p>

<p>インタビューでは、良い言葉をカメラの前で引き出すことに苦労した。質問が直接的過ぎても、抽象的過ぎてもいけない。現場の状況に合わせた柔軟な対応をとることは、とても難しかった。何度も失敗したが、内野さんは最後までインタビューに付き合ってくれた。</p>

<p>そのインタビューの中で印象に残った言葉がある。「１つ１つ手作りのだるまと、機械で作られただるまの差が、お客さんに分からなくなってきているんだ･･･...」。内野さんは、そう寂しそうにつぶやいた。</p>

<p>以前は１つ１つ木型に紙を貼り、形は不揃いでも手作りのだるまが作られてきた。しかし今は胴の部分を機械で作るだるまが増えてきている。機械で作れば失敗もなくなるし、大きさも全て同じになる。しかし、その中で内野さんは手作りにこだわり続けている。「手作りの方が、味があるんだよね。１つ１つ違う顔になる。人と同じだ」。そういって笑った内野さん。職人としてのこだわりが感じられた。</p>

<p>この後、撮った映像を編集し、5月にようやく「多摩だるま」のＶＴＲは完成した。取材回数１０回、制作期間８ヶ月。振り返ればあっと言う間であった。ケーブルテレビへの納品も無事に終わり、ようやくホッとした。ただ、本当に内野さんの思いや、自分がVTRに込めた思いが見た人に伝わっているのか少し疑問も残っていた。</p>

<p>そんなある日、高幡不動駅から自宅への帰り道を歩いていたところ、偶然通りかかった初老の男性と話す機会があった。最初は彼の家庭菜園の話をしていたのだが、話が弾む中で「多摩探検隊知っているよ、内野さんだっけ？『多摩だるま』なんて知らなかったけど、すごく面白かったよ」と話してくれた。なんとも言えない温かい充実感が、私の体中に満ちていくのが分かった。　</p>

<p>私は、１人でも多くの人に知ってもらいたかった。多摩地域に、こんな伝統的なだるまがあることを。そして、それを作り続ける職人がいることを。高幡不動で出合った彼の言葉は、私が伝えたい思いが1人の視聴者に伝わっている証拠であった。</p>

<p>この番組制作を通して、人に出会うことの楽しさ、人に何かを伝える面白さ、いろいろなことを学んだ。私はこれからも、埋もれた事実を掘り起こし、いろいろな人に伝えていきたい。</p>
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    <title>カメラの向こう側</title>
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    <published>2009-12-31T15:00:03Z</published>
    <updated>2011-11-23T14:28:47Z</updated>

    <summary>2008年10月18日。朝5時半に、自宅を出た。ひんやりとした空気に思わず背筋が伸びる。モノレールの駅の向こうに見える空が、薄いピンク色をしていたことをよく覚えている。私はこの日、初めてビデオカメラの前に立った。 「多摩...</summary>
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        <![CDATA[<p>2008年10月18日。朝5時半に、自宅を出た。ひんやりとした空気に思わず背筋が伸びる。モノレールの駅の向こうに見える空が、薄いピンク色をしていたことをよく覚えている。私はこの日、初めてビデオカメラの前に立った。</p>

<p>「多摩あるきたい！ ～高尾山編～」で、私は"土佐出身の齊藤隊員"として、大槻隊員とリポートをした。最初にリポーターの話が上がったときは冗談かと思ったが、どんどん話は進んでいき、撮影日になってしまった。いつもは、カメラを構えて撮影する側にいる私。リポーターは、いわば「カメラの向こう側」の存在だった。どんな顔をすればいいかも、どこを見ればいいかも、どんなコメントをすればいいかもわからないまま、高尾山のふもとまでやってきた。</p>

<p>高尾山の山頂までのルートは、全部で5コースある。そのすべてを1日で制覇するというのが、今回の企画。中学・高校の6年間合唱部に所属し、もともと運動が苦手な私にとって、リポートだけでなく企画内容も不安だらけだった。「とにかく山頂にたどり着こう！」と心に決めて、登り始めた。しかし、序盤は元気があったものの、だんだんと口数が減ってくる。歩いても歩いても周りに見えるのは木々のみだったときには、ただでさえ下手なリポートが、全く口から出てこなかった。2回目の山頂からの景色を眺めたときには、「まだ2回目か...」とぐったりしていた。</p>

<p>最後のルートである稲荷山コースを登りだした頃には、日の入りまであと1時間ほどしかなかった。結局途中で日没を迎えたため、懐中電灯を片手に黙々と登り続ける。すっかり日が暮れてから着いた山頂では、蕎麦屋の店員さんが帰宅するところだった。もちろん、登山客はもう誰もいない。貸し切りの山頂から見る夜景は、思わず声を上げてしまうくらいきらきらと輝いていた。</p>

<p>後日、多摩探検隊を毎月放送していただいている、八王子のケーブルテレビの方に会ったときに「あれ、本当に何回も登ったの？」と驚かれた。そして「10分にしちゃうの、もったいなかったね」と言っていただいた。VTRでは10分に縮められているけれど、実際はゼーゼー言いながら12時間も歩き続けたあの日。ゼミ生以外からもらう言葉はどこかくすぐったい気分だった。</p>

<p>「多摩あるきたい！ ～高尾山編～」は、学生だからできた企画だと心から思っている。私は全然リポーターとしての役割を果たせなかったけれど、本当に貴重な経験ができた。視聴者を意識して話さなければならないという難しさを、身をもって知った。下山するためのケーブルカーがなくて、真っ暗な道をみんなでキャーキャーと騒ぎながら歩いて帰ったのも、楽しい思い出となった。今でもたまに高尾山に登りたくなったりする。さすがに1日に何度もは登りたくないけれど。</p>
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    <title>番組制作という険しい登山</title>
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    <published>2009-12-31T15:00:02Z</published>
    <updated>2011-11-23T14:34:39Z</updated>

    <summary>登山を始める時、ゴールとなる山頂は遥か彼方に見える。しかし、多摩探検隊の番組制作は、ゴールが見えないほど長く険しい道である。 季節はすっかり秋となった１０月中旬。早朝６時。空気は凛としていて、肌寒い。私は、高尾山のふもと...</summary>
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        <![CDATA[<p>登山を始める時、ゴールとなる山頂は遥か彼方に見える。しかし、多摩探検隊の番組制作は、ゴールが見えないほど長く険しい道である。</p>

<p>季節はすっかり秋となった１０月中旬。早朝６時。空気は凛としていて、肌寒い。私は、高尾山のふもとに立っていた。２００７年にミシュラン三ツ星を獲得し、世界一の年間登山者数を誇るその山で、多摩探検隊のリポート番組を制作しようとしていた。実はこの日は、リベンジとなる撮影だった。</p>

<p>「高尾山の魅力は毎日景色が違うところだね。日本には四季があるでしょ？その四季を植物や風景から感じることができるんだよ」。事前取材で出会った登山家の言葉に感動し、高尾山を取り上げることにした。しかし、いざ撮影をしてみると、ただ高尾山に登ってリポートするだけでは魅力を十分に伝えることはできなかった。木々の緑しか映っていなくて、変わり映えのしない映像に頭を抱えた。</p>

<p>そこでリベンジとなる撮影では、一つの大きなしかけを考えた。「山頂までの全５コースを１日で完全登覇する」というものだ。誰も挑戦しないであろうこの企画に挑むことで、様々な角度から高尾山の魅力を伝えることができると思ったからだ。ディレクター初挑戦の私とリポート初挑戦の２人、撮影クルー２人の計５人の大きな挑戦が始まった。私の仕切りやディレクションの悪さで、ただ歩くだけでも体力を奪われるリポーターやクルーに多大な迷惑をかけた。最後の登山ルートである「稲荷山コース」の山頂にたどりついた時は、もう辺りは懐中電灯が無いと見えない程暗く、登山開始から約１２時間も経っていた。散々歩き回り、汗をかいた。しかし、真っ暗な山頂から見た都心の夜景は、驚くほど輝きを放ち目に焼きついた。</p>

<p>ところが、ここからさらに険しい山が待っていたのだ。撮影した映像をどう編集するか、何度も試行錯誤を繰り返した。何を伝えたくて、何が面白くて、何に苦労したのか。それが全く伝わらない。途中投げ出したくもなったが、高尾山を何時間もかけて歩いたあの日をなんとか形にして、高尾山の知られていない魅力を伝えたいという気持ちでいっぱいだった。そして、ゼミ生や先生にアドバイスをもらい支えられ、「多摩あるきたい！ ～高尾山編～」を８ヶ月かかって完成させることができた。高尾山の全ルートを歩くより長い長い道のりだったように思う。この作品を見た人が、高尾山に行ってみたいと思ってくれたら、それ以上嬉しいことはない。</p>

<p>投げ出すことは簡単にできる。しかし、そこで工夫をし、やり方を変えてみて、一歩前に進めるかどうかに挑戦することで道が開けるのだということを学んだ。登山は苦しく、長い道のりをひたすら登るが、登りきった後から見る景色や達成感があるからこそ魅力的で、虜になってしまう。番組制作も同じように、完成するまで時間がかかり何度もくじけそうになるが、形となった時の達成感や充実感は何ものにも変えがたい。番組制作という大きな山を登りきった私は、この山の虜になってしまったのかもしれない。</p>
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    <title>20歳の挑戦</title>
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    <published>2009-12-31T15:00:01Z</published>
    <updated>2011-11-15T17:08:39Z</updated>

    <summary>最近、階段を使うことが少なくなった。自分の足で歩いたり上ったりする事を避けて、ついつい楽をしてしまう。 駅のホームではエスカレーターを探し、大学に来れば２階以上はエレベーターを待つ。たまに仕方なく階段を３階くらいまで上っ...</summary>
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        <![CDATA[<p>最近、階段を使うことが少なくなった。自分の足で歩いたり上ったりする事を避けて、ついつい楽をしてしまう。</p>

<p>駅のホームではエスカレーターを探し、大学に来れば２階以上はエレベーターを待つ。たまに仕方なく階段を３階くらいまで上ったりすると不本意にも息切れする。そして大きく呼吸をして涼しい顔をして教室へ入っていく。なんとも情けない。２０歳になった頃からこんなふうに体力的にも気力にも少し甘えが生じるようになった。</p>

<p>そんな私を待っていたのは、東京都八王子市にある高尾山の全登山道を１日で制覇するという挑戦だ。階段さえ上らない私が山を一日中歩き続けるなんて、道中で気絶すると思った。</p>

<p>挑戦をしたのは昨秋。紅葉が少し始まっていた。集合した朝の６時はまだ少し薄暗く、２枚の長袖の中まで冷やりとした空気が伝わってくる。</p>

<p>登山道は全部で5つ。いよいよスタートだ。しかし、ここで早くも最初の試練がやってくる。それは「高尾山を歩きたい！」という軽快な決め台詞を、右腕をを使ったポーズつきで言うこと。今回私は登山と同時に高尾山の魅力を伝えるリポーターにも挑戦したからだ。リポーターの「リ」の字も分からなければ、カメラと登山客を前に顔は引きつり、声も出ない。その姿は、言われるがままに芸をする猿回しの猿のようだ。それでも恥ずかしさを捨て、なんとかこの場を乗り切る。あんなにハイテンションな自分は新鮮だった。</p>

<p>１週目のびわ滝コースは、川沿いをてくてく歩いていく。このただ歩くという単調な行動が一番難しかったように思う。単調な景色でも何かを発見し常に自分の言葉で表現していかなければいけない。黙ったら終わりだ。そんな緊張感のせいか、体の疲れはほとんど感じずに１週目を終えた。</p>

<p>２週目の表参道コースは薬王院の周辺に急な階段が多かった。エレベーターはない。自分の足で一歩一歩必死に登っていく。少し笑顔の消えた私を待っていたのはお昼ご飯のご褒美。とろろ蕎麦を食べることにした。ここでもリポートだ。ところがとろろの粘りで「グフっ」と妙な声でむせてしまう。続けてコメントを言おうとするも気の利いた言葉が見当たらない。思案の末、発した言葉は「蕎麦の香りが私のソバに漂っています」だった。お蔵入りしてほしいと思った。</p>

<p>３・４週目は吊り橋コースとかつら林コース。３週目の半ばに差しかかる頃から足が重くなってきた。それでも足が動いたのは、高尾山を制覇したいという思いと自分に負けたくないという意地だったのかもしれない。４週目を終えるころにはすでに辺りが少し暗くなっていた。</p>

<p>そして最後は稲荷山コース。足取りがもたついていたが、さらに足元を木の根が邪魔をする。息もかなりあがっている。体力と気力との戦いだった。リポートを忘れ、ただ必死に山頂を目指す。そしてようやく山頂についた。山の夜は真っ黒で、懐中電灯の光で辺りを照らす自分が少し小さく思えた。</p>

<p>約１２時間の登山。最後に山頂で大きく深呼吸をすると達成感でいっぱいになった。なんだか体力も気力も少し若返った気がする。この日は去年１年間で一番充実した一日だった。</p>

<p>あの日山頂で携帯のカメラに収めた夜景は今、２１歳になった私の待ち受け画面になっている。</p>
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