元・特攻隊員からもらった言葉
私が所属する多摩探検隊では、毎年8月に戦争と平和をテーマに番組を制作している。戦後65年にあたる今年は、東京都武蔵村山市に戦時中あった東京陸軍航空学校にスポットを当てドキュメンタリーを作った。そして、その番組は、第76回多摩探検隊『東京陸軍航空学校 少年飛行兵の記憶』として放送された。私は、その番組にディレクターとして携わり、取材や撮影を行った。東京陸軍航空学校とは、少年飛行兵の育成のために開校された学校で、人々からは「東航」と呼ばれていた。東航には、難関の試験を突破した14歳から16歳の少年が入学し、1年間の訓練を積んだ後、各地の陸軍の施設でさらに訓練を受け、戦地へと赴いた。
そもそも、少年飛行兵というテーマを見つけたのは2009年の11月のことだった。他の取材のために武蔵村山市を訪れていたとき、偶然バスの車窓から見えたのが、「陸軍少年飛行兵慰霊塔」という看板だった。半年後の2010年5月、8月放送のテーマを探している時に、ふとその看板のことを思い出した。調べてみると、戦時中、武蔵村山に少年飛行兵を育成する施設があったことが分かった。少年飛行兵の中には、特攻隊として犠牲になった人もいる。戦争とはあまり関係とはないと思っていた武蔵村山の地に、少年飛行兵を育成する施設があった。その事実はあまり多くの人には知られていないに違いない。「その事実を多くの人に伝えたい」。そんな思いから、番組制作が始まった。
番組のテーマは決まったものの、映像という形で伝えるためには、生の声で当時の思い出を証言する方を探さないといけない。しかし、高齢となった戦争体験者を探すことは、細い糸を手繰り寄せるようなものでなかなか見つけることができなかった。この方にお話を聞きたいと思い連絡をとっても、すでに亡くなっていたり、病気でお話を聞けないということもあった。そんなあくせくした日々が2週間ほど続き、このままでは放送に間に合わないと私は焦る一方だった。
しかし、取材を続けていた6月の初め、東航を卒業し、戦地へと赴いたが、奇跡的に生き残った方が長野県松本市にいることがわかった。元少年飛行兵・島田昌往(まさゆき)さん(84)である。早速、島田さんに連絡をとり、インタビューを撮影させていただいた。それが番組の軸となった。さらに、島田さんの部隊の隊長の墓がある静岡県牧之原市や、島田さんが出撃した基地があった鹿児島県南九州市知覧町でもロケを行い、無事に番組は完成した。
約1年前、私が武蔵村山で慰霊塔の看板を見つけた時、その看板を出発点として番組を制作することは、全く考えていなかった。しかも、取材を進めていくうちに、少年飛行兵に関する取材は、武蔵村山から松本、そして知覧、静岡と、全国に広がっていった。ひとつの看板を出発として、日本各地に散らばる点を辿って行き、1本の線となっていくのを感じた。番組を制作している間、私は壁にぶつかるたびに、「番組制作をして何の意味があるのだろう」と自問自答していたこともあった。
その度に、私は島田さんから聞いた言葉を思い出していた。島田さんは、「長い間、戦争についての話をすることはためらわれた」と言った。生き残った人間として、戦争の話をすることは亡くなった人間に対して申し訳なく、そして、自分自身の辛かった思い出を追体験してしまうからだろう。それでも、語り続ける理由とは何なのだろうか。そういう問いをぶつけたとき、答えは、「自分が語ることで、少しでも戦争の悲惨さを後世に伝えることができたら」という言葉だった。
その言葉を前にして、私たちにできること。それは、きっと、1人でも多くの戦争体験者を探し出し、埋もれている言葉を掘り起こし、その声にカメラを向け記録し、伝え続けることだろう。そして、そこに私たちの活動の意味は間違いなくあるはずだ。いくつもの苦労を重ねて番組を完成させた今、私は自信をもって、そう思っている。